中目黒八幡町会の歩み

【2008年発行の町会名簿より転載】

中目黒八幡町会の歩み

私たちが住んでいる地域が、部落制度の実施によいって八幡部落となったのは、大正2年(1913年)のことです.当時の八幡周辺は中目黒鎮守の宮本として、村(町)役場や世田谷警察目黒分署など官公署が置かれ、旧目黒の心臓部といわれていました.

住民の自治意識も高く、宮本と伊勢脇が一緒になって、幡勢会という自治組織をいち早く発足させました.大正2年(1923年)のことで、この幡勢会こそが現町会の原点なのです.

昭和4年(1929年)行政制度が区制になり、幡勢会は八幡区会と改称されましたが、昭和7年(1932年)市と郡の合併に直面し八幡区会はわずか3年で自然解消となりました.目黒町役場が区役所に、八幡が中目黒2丁目と区画されたのはこの時です.

昭和8年(1933年)代に入ると、国土防衛が国策となり、行政は戦時体制一色になってきました.防護団や防火群の結成が指示され、戦争前夜のあわただしい時代に突入してゆくのです.緊迫の状勢に対応するため、かつての幡勢会を(はたせ会)に再組織、昭和12年(1937年)大東亜戦争の口火が切られるや、防空、防火の充実、銃後の援護など国策の第一線となって活動したのです.

昭和14年(1939年)早くも区域変更が行われ、幡勢会は、上中2丁目町会と改組を余儀なくされ、翌年には中目黒と上目黒、祐天寺の一部が合併し、中目黒2丁目南町会に再度の改称となりました.

以来終戦まで前線さながらの防空、防火活動、統制物資の配給事務、戦災者への援助物資の配布等々、町会の仕事は多岐にわたりました.隣組制度が抜群の成果をもたらしたのもこの当時です.

昭和20年(1945年)終戦.その時の10月占領政策によって、良き風俗、習慣に根ざした伝統ある町会制度は、他の諸制度とともに、完全に終止符を打たれたのです.

以後地域活動は空白の時が経過し、半年後防犯協会中目黒支部ができ、地域内の防犯活動を始めました.

この活動資金を援助するため住民総意による公益団体後援会を結成し、町会事業にかわる仕事として取り組んだのです.

やがて昭和27年(1952年)待望の講和となり、昭和29年(1954年)5月総会で中目黒2丁目南町会の再出発を決定しました.

世情は混乱から安定、そして高度成長期にはいり、当町会の諸事業も行政との係り合いが不可欠なものとなりました.

板羽梅重郎、山崎喜一、上原与助の各氏が地域選出の区議会議員として活躍されたのは周知のとおりです.

殊に同時期、同地域の戦いとなった板羽派、山崎派の対立は、町会運営に久しくシコリを残しましたが、反面地域活動にある種の活力をもたらすことにもなりました.

昭和42年(1967年)住居表示の変更で、当町会区域が中目黒1丁目から4丁目の一部までと、広範囲となるに及んで、6月総会にはかり中目黒八幡町会と改称しました.同時に、この総会では町会役員の若返りが問題となり、深刻議論として残りました.

当時地域には町内2世による(若旦那会)が結成され、若者の交流が活発におこなわれていました.そこで人事刷新の有力な手段として若い力の町会参加を求めることになったのです.

当初若干意見の相違はありましたが、昭和45年(1970年)の総会を機に役員として参加することで合意しこのことは町会運営の今日につながる大きな収穫となりました.

多様な価値観を見据えながら当町会はこれからも堅実な歩みを続けます.

 


↓昭和元年のお祭り風景matsuriS1

↓昭和29年お祭り風景

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↓昭和8年の中目黒小学校の校舎

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↓これは現在の風景 cherry

Updated: 2014年6月30日 — 4:32 PM
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